昔の日記

大学2年生頃に書いた日記を見つけたからそのまま載っけてみようと思う。

 

「疎遠になってく人って友達でもそれ以外の人でも今までにたくさんいたけど、それは自分が成長してるからであって決して悲しいことではないと思うようになった。

今までは最近あいつと遊んだりしなくなったなーとか誘われなくなったなーとか考えると寂しい気持ちになったりしたけど、生きてたら毎日全員がそれぞれ変化し続けていく訳であって、自然と合わなくなったりするのは当然なのかも。勝手に自分と同じレベルに合った人しか周りに残らないようにできてる気がする。

今周りにいてくれる人を大事にしたいし、出来るだけ違いも受け入れたいけど、そのうち自分から遠ざかるのか、それとも相手から離れていくのかで関わりが減っていくかもしれない。それは仕方ないことだし無理に付き合ってても息苦しいだけになるだろうからあんまりその関係に固執するのだけはやめようと思う。関係が最適化されただけであって悲観することじゃないしまた新しい人と知り合うようにできてるはず。

そもそも疎遠になるってことはその人から得るものを既に得たからだと思うし、もう会う必要がなくなったから。縁があるならまた会うだろうし、それはまた会う必要があるからなんだと思う。」

 

…多分このときの自分は大学という自由な空間で心が迷子になって、理解者がいなくて寂しかったんだと思う。大学生特有のノリだとか空気感をどうしてもナナメな目線で見てしまって、いろんな出会いだったり機会を自ら突っぱねてしまってた。その結果誰とも馴染むことができなくて、自業自得にも孤独を感じてた。気難しい自分を嫌悪する一方で群れてる学校の人たちをどこか見下してしまう。その狭間で苦しんでた。

そうやって悩みに悩み抜いた末、辿り着いた考えがこの日記だったのかなあ。文章にして残したことはある種の決心のようなものでもあったのかもしれない。

確かこの頃からかな。孤立はいけないけど、孤独は人間にとって必要なものだって思うようになったのは。初めは寂しい気持ちを無理やり正当化してる側面もあったけど、今では真っ直ぐに孤独は必要なものだって思うし胸を張って言える。

これからも寂しさに惑わされて無理に人間関係を増やしたりはしたくない。でもね、23歳になって改めて思い知ったのはやっぱり人間って一人じゃ生きていけないんだなってこと。一人だとやっぱり寂しいよ、どうしても。誰かがいてくれないと寂しさに押し潰されそうになる。考えが矛盾しまくってて情けないんだけどね。

だけどふと思った。もしかしてこれが人間味ってやつなのかなって。いつかのアメトーークブラマヨの吉田が捻くれた正論まがいな意見をこれでもかと連発してたんだけど、不覚にも生じた矛盾を他の芸人たちから一斉に突っ込まれたとき、これが人間味やねんって言い訳して笑いを取ってた。不思議と印象に残ってて、それをちょうど今思い出した。結局は吉田のただの言い訳に過ぎないんだけど、それが人間味であってくれれば自分のこういったダメな部分までも肯定できるから都合がいいんだよね。だからそうであってほしいっていうただの願望も含まれてる。さらに情けないね。でも本当に吉田の言い訳した通り、生意気に述べた正論まがいな意見から生じた矛盾が人間味ってやつなんだとしたら、この屈折して汚れまくった人間味を優しく包み込んでくれる人はいるのかな。いてくれたら死ぬほど嬉しいな。自分で自分を自分のやり方で高めていって、いつかは味わい深くて優しい人間味を持った魅力的な人になりたい。大勢を惹き付けられなくてもいいから、一人二人分かってくれればそれでいいなって思う。

 

最後に少しだけ話は逸れるけど、この日記を書いた当時も社会人になった今もyonigeの「最近のこと」の歌詞がめちゃくちゃ刺さる。

 

「すぐやめようと思ってた例のバイトは続けてるよ
客には愛想よくしろって怒られてばっかだけど
君とうまく話せなくなって3ヶ月が経つけど
その間にぼくはさ、ビールが飲めるようになった

大人のしょうもない皮肉を受け流せないぼくの若さ
群れてる奴らを毛嫌った履き違えているぼくの若さ
君とうまく話せなくなったキッカケはわすれたけど
その間に君はさ、恋人ができたんだってね」

クリスマス 2018

元々クリスマスに縁のない人生ではあるけれど、今年は生きてきた中で一番クリスマスを意識しなかった気がする。というのもいつも通り仕事だったから。いつも通り朝起きていつも通り働いていつも通り一日が終わった。いつも通り作業着汚していつも通り忙殺されそうでいつも通り死にたかった。クリスマスであることをすっかり忘れながら過ごした。

 

その日もいつも通り帰るのが遅くなった。とりあえずお風呂入ってからごはん。お母さんはいつも自分がお風呂から出るタイミングを見計らってごはんを運んできてくれる。いつも通りの納豆ごはんにいつも通りじゃない安っぽいスーパーの骨付きチキンが質素に並ぶ。あ、今日ってクリスマスだったんだ。このタイミングでやっと思い出した。

我が家のクリスマスは毎年豪勢ではなくともせめてものチキンだったりケーキをいつもの食卓に添えることで少しでも特別感を演出してささやかに幸せを割り勘する。

 

正直うちの家庭は貧しい。そのことに気付いたのは小学校高学年くらいだったと思う。子どもの頃のサンタさんからのプレゼントは猫のぬいぐるみだったりポケットラジオだったり。一方で友達が最新のゲーム機器だったりを貰ってたことを知ったときに自分の家の事情が何となく分かり始めたのかな、確か。子どもだったから気にしなかったけど住んでた場所も最初ぼろぼろの県営団地だった。

 

最近の話で言うとついこの前、親戚のお姉ちゃんの結婚式があった。場所は帝国ホテル。ちなみに帝国ホテルで結婚式やると500万かかるらしい。後から聞いて衝撃だった。

当日朝、親父の車に乗って向かう。駐車場に並ぶ高級車の数々。ベンツなんて冗談抜きで50台は見かけた。我が家はスズキのワゴンR。軽自動車で来てる人なんて完全にうちだけだった。場違い感満載で両親は苦笑い。俺も何だか恥ずかしい。

席に着いて式が始まった。どうやって食ったらいいのか分からない明らかに高級な料理と明らかに高級なワインとシャンパンが次々と運ばれてくる。ワインとシャンパンに至っては一口でも飲むとその消費分を補おうとスタッフが注ぎにすぐ駆け付けてくる。泥酔させる気なのだろうか。過剰なホスピタリティは時に人間を破滅へと堕ち入れる気がする。

席にはうちの両親と自分の3人に加えて会ったことのない名前も知らない親戚が相席した。さすがに両親はその人たちが誰なのか知ってたけど自分は最後まで分からなかった。

その人たちは経営者だったり海外出張に頻繁に行く大きな会社の役員だったりで、来年の日本経済の動向は〜、こんなイノベーションが〜、私の思う経営戦略は〜、とかレベルの違いすぎる話で盛り上がってた。凄いな、気まずいな、と思いながら横目で両親を見ると2人ともバツの悪そうな顔でこそこそとステーキを口に運んでた。あれは何か悲しい気持ちになったな。

 

話が飛んじゃった。クリスマス当日、スーパーのチキンがテーブルに並ぶのと同時に父親も帰ってきた。3人でごはんを食べる。3人で普段食卓に並ぶことのない、我が家にとって特別なスーパーの骨付きチキンを頬張る。うちの両親は仲が良い。これ美味しいね、どこで買ってきたの、あのお店だよ、ケーキも買ってきたよ、ずっと会話してる。ここは帝国ホテルじゃないから、両親は活き活きと自分たちの生活レベルに見合った幸せを2人で共有してる。自分は家では無口。だからそんな両親をいつも横目で眺めてる。結婚式で惨めな思いをしてる両親を直近で見てたから、何だか両親の笑い合う姿が微笑ましくて、愛おしく感じた。浜田のチキンライスの歌詞じゃないけど、自分はお父さんお母さんの子どもとして生まれてきたからスーパーの骨つきチキンが一番美味しいし何よりちょうどいい。何か食べてて泣きそうになった。

3人でにちようチャップリンのお笑い王決定戦をケーキを食べながら見た。やさしいズで両親も俺もたくさん笑った。やさしいズ、ありがとう。そして優勝おめでとう。

 

明日も仕事。早めに寝ないとだから急いで布団に入る。寝る前にSNSを開くと恋人同士で俗に言うインスタ映えのするお店で豪華なディナーを楽しんでる様子だったり、大勢の友達で集まってパーティをする様子が次から次へと目に飛び込んでくる。高級ブランド品をプレゼントに貰ったとか、こんなサプライズをしてもらったとか画面の向こう側はお祭り騒ぎ。見ててベタに虚しくなった。でも少しだけ。みんなはどんどん幸せになればいいんだなんてかっこつけたことを思って携帯の電源を消した。

 

枕元には昔サンタさんに貰ったポケットラジオ、部屋の隅には猫のぬいぐるみ。何かいいことあるといいな。目を閉じたらストンと一瞬で寝ちゃって、いつも通り朝が来た。そんな今年のクリスマスだった。終わり。